頼久寺、小堀遠州作の庭園(高梁市)
岡山県高梁市にある頼久寺(らいきゅうじ)は座禅で知られている臨済宗永源寺派のお寺です。本尊は聖観世音菩薩です。備中西国第5番札所、瀬戸内観音霊場13番札所ともなっています。特に、小堀遠州作の枯山水の庭園は有名です。
頼久寺(高梁市)へのご案内
所在地 | 岡山県高梁市頼久寺町18 |
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交通 |
JR伯備線高梁駅下車、北へ1km徒歩約15分 車の場合は、岡山又は新見方面より、国道180号線沿いに走って高梁市街地にあります。 岡山自動車道、賀陽インターチェンジより、 国道484号で約15分 岡山自動車道、有漢インターチェンジより、 国道313号で約25分 |
駐車場 | 無料駐車場があります。10台程度駐車可。 |
拝観料、電話 | 大人400円、中高生200円、電話 0866-22-3516 |
地図 | 頼久寺付近の地図 |
頼久寺入口の石段と案内の石碑
この写真は頼久寺の入口の石段です。ここの石碑に「天柱山安國頼久寺」、「名勝頼久寺庭園」と刻まれています。
頼久寺は岡山県高梁市にある臨済宗のお寺です。山号は天柱山といいます。伯備線高梁駅と備中松山城との間に位置しています。
何といっても有名なのは、小堀遠州が築造した蓬莱式の 枯山水楽天 の庭園です。これは見応えがあります。
(撮影 2012年3月13日)
頼久寺の境内
頼久寺は1339年(暦応2年)、備中国の安国寺として足利尊氏により再興されました。永正年間(1504年~1521年)に、備中松山城城主、上野頼久が寺の景観を一新しました。1521年(大永元年)に、頼久が亡くなったので、その名前の2文字を加え、寺号を安国頼久寺に改称しました。
この写真は頼久寺の境内です。前方に見えている建物は境内の北側に位置していて、その外観から、禅寺であることが見てとれます。境内には12体の十二支とお坊さんが戯れているユニークな石像があちらこちらにありました。
小堀遠州作の蓬莱式枯山水庭園
慶長5年(1600年)に、関ヶ原の戦いでの功績により小堀正次が備中国1万4千石に封じられました。正次は1604年(慶長9年)に死去したので、子の政一(小堀遠州)がその領地を引き継ぎました。
その頃の備中松山城は備中兵乱の後で非常に荒廃していたので、政一は頼久寺を仮の住まいとして、1619年までこの地で過ごしました。
境内の蓬莱式枯山水庭園はこの頃に小堀遠州により作庭されたものです。愛宕山を借景にして、白い敷砂の中央に鶴島、後方に亀島の2つの低い築山状の島を置いて石を組んでいます。
書院の左手には斜面に沿ってサツキの大刈込みで青い海の波を表現しています。
私はこの庭を一目見た時から、矢掛町の大通寺の庭園と相通ずるものを感じました。
このような庭の作り方は、安土桃山時代から江戸初期にかけて流行したものです。1974年(昭和49年)に国の名勝に指定されました。
頼久寺本堂の屋根
頼久寺本堂の屋根の写真です。立派な鬼瓦と軒の先に付いている瓦にはなぜか菊の紋がありました。
鬼瓦は元々意匠としての飾り屋根ですが、古くから鬼瓦を家の守り神として屋根の棟端に置いています。一目見てこれだけの鬼瓦が乱立しているのは壮観です。
頼久寺裏の墓地
頼久寺の裏には、この写真で左から、上野頼久の墓と、永禄9年(1566年)に暗殺された三村家親と、天正3年(1575年)に非業の死を遂げた三村元親の墓がありました。
また、元親の子の勝法師丸の墓もその右に並んでありました。三村元親には勝法師丸という男の子が一人残っていましたが、その利口なことを恐れた毛利氏はわずか8歳の子供を雪舟で有名な総社の井山宝福寺で斬首しています。
宝福寺にあった勝法師丸の墓は現在は頼久寺に移されています。悲しい物語です。
小堀遠州について
1600年(慶長5年)の関が原の戦いで毛利氏は広大な領地を徳川に没収され、小堀正次が備中国奉行として備中松山城を守ることになりました。
1604年(慶長9年)正次が死去し、子の政一(小堀遠州)が跡を継いで備中国奉行となりました。遠州は茶の湯に優れ、天下第一の茶匠の地位に上りつめ、武芸茶人の筆頭に挙げられました。
また、遠州は建築や造園にも天才的な腕を発揮しており、頼久寺庭園や二条城二の丸や江戸城の庭園等数々の建築や庭園を残しています。