備中松山城(天守のある日本一高い山城)
岡山県高梁市にある備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)は美濃岩村城、大和高取城と共に日本三大山城のひとつで国の史跡となっています。天守閣は江戸時代に建造され、国の重要文化財に指定されています。
備中松山城(高梁市)へのご案内
所在地 | 岡山県高梁市内山下1 |
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交通 |
JR伯備線高梁駅下車、北へ直線で約2km徒歩では約1時間 車の場合は、岡山又は新見方面より、国道180号線沿いに走って高梁市街地の北の臥牛山上にあります。 岡山自動車道、賀陽インターチェンジより、 国道484号で約20分 岡山自動車道、有漢インターチェンジより、 国道313号で約30分 |
駐車場 |
ふいご峠に無料駐車場があります(土日曜日と祝日は利用できません)---約十数台。駐車場から徒歩で約20分 城見橋公園にも駐車場があります---約100台 |
入城料、電話 | 大人300円、小中学生150円、電話0866-22-1487 |
地図 | 備中松山城付近の地図 |
備中松山城天守閣
この写真は備中松山城天守閣です。北側の地階部分の左側が観光用の出入口になっています。この東面に突出した部分は廊下の一部です。中に入ると右側に石垣があります。
臥牛山(標高480m)のうちの標高430mの小松山の頂上に建つ天守閣は国の重要文化財となっています。現存する天守閣を持つ山城としては日本で最も高い所にあります。
鎌倉時代に、有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭、秋庭重信が大松山に城を築いたのが備中松山城の始まりです。1683年に水谷勝宗によって修築されて今の天守閣の元になりました。
奥に本丸二重櫓が見えています。
備中松山城天守閣内部
この写真が 天守閣楽天 内部です。昔は、ガラス窓などは無く、冬はとても寒かったと思われます。天守閣1階には囲炉裏(いろり)がありました。
1574年(天正二年)の備中兵乱当時は臥牛山一帯が要塞のようになっていたと思われます。この時の城主の三村氏が滅んだ後、毛利氏の代に変わり、その後備中国奉行として赴任した小堀正次とその子の政一(小堀遠州)によってお城の修改築が行われました。
それ以降、池田、水谷、安藤、石川、板倉氏と城主がめまぐるしく変わりました。
備中松山城天守閣と復元された建物群
私が子供の頃は、城内には天守閣と二重櫓と土塀の一部しか無かったように思うのですが、平成6年から本丸の復元整備が行われ、本丸の正面玄関となっている本丸南御門や東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが復元されました。
このように立派に復元されると、見栄えが良くなったのか、観光客も増えているそうです。
ふいご峠からの登城坂と土塀
ふいご峠からの登城坂の周辺は、高さが10m以上にもなる岩壁があちこちに切り立っています。上から見下ろすと怖いような傾斜角度です。難攻不落と言われる山城の面影を残していました。
白い漆喰塗りの土塀には丸や四角や三角の形をした弓を射る為の穴が開けられていました。
臥牛山には以前は猿がたくさん生息していました。これは観光用に餌付けされていたからです。私が子供の頃、臥牛山の麓の親戚の家から猿をよく見に行ったのを覚えています。
猿を見に来る観光客が減少したので、餌付を廃止して野生に帰すようにしたようです。従って、現在は登山道で野生の猿をあまり見掛けません。
頼久寺について
慶長5年(1600年)に、関ヶ原の戦いでの功績により小堀正次が備中国1万4千石に封じられました。正次は1604年(慶長9年)に死去したので、子の政一(小堀遠州)がその領地を引き継ぎました。
その頃の備中松山城は備中兵乱の後で非常に荒廃していたので、政一は備中松山城の麓の頼久寺を仮の住まいとして、1619年までお寺で過ごしました。頼久寺の小堀遠州作の枯山水の庭園は有名です。