民生委員制度の歴史(済世顧問制度と方面委員制度)

民生委員制度の始まりは、大正6年に岡山県に設置された済世顧問制度です。翌年の大正7年には元大阪府知事の林市蔵が方面委員制度を作り民生委員制度の元となるものができ上がりました。これが昭和3年に全国に普及しました。

済世顧問制度とは(岡山県)

日本に初めて民生委員制度に近いものが作られたのは、大正6年に 岡山県楽天 に設置された済世顧問制度(さいせいこもんせいど)だと言われています。そういうことから言うと、岡山県はこの方面では進んでいたんですね。

その時の岡山県知事の笠井信一が県内の貧困者の実情を察して、ドイツのエルバーフェルト市の救貧委員制度を参考にして作ったものです。

方面委員制度と林市蔵の銅像(大阪府)

元大阪府知事の林市蔵の銅像

方面委員制度は元大阪府知事の林市蔵が大正7年に、前年の岡山県の「済世顧問制度」に近いものを作った事に始まります。

大正7年の秋の夕暮れ時、元大阪府知事の林市蔵が、淀屋橋の近くの理髪店で散髪していた時、新聞を売っている母子達の姿を鏡で見つけました。

この母親は秋なのに夏の浴衣を着て、素足に直接下駄を履いて、背中に乳児を背負って、更に幼児の手を引いていました。

父親が病気のため失業中で母子で新聞売りをして細々と生計を立てている窮状に心を打たれた知事は、府の嘱託の小河滋次郎博士に命じて方面委員制度を創設しました。これが大阪府での民生委員制度の元となりました。

この写真は、淀屋橋の近くに建てられた生みの親の林市蔵の銅像です。私は米国から帰国して、翌日2013年10月7日の早朝、たまたま淀屋橋や中の島公園を散歩していて見つけました。銅像の近くには詳しい説明書きがありました。

奇しくも私が民生委員になる約2ヶ月前のでき事です。これも何かの縁かも知れません。

方面委員制度が民生委員制度になる

大正7年に始まった方面委員制度が、昭和3年には全国に普及しました。その後、昭和21年には民生委員令が公布されて名称が現在の「民生委員」に改められました。

児童委員の創設

昭22年に児童福祉法が公布されて、民生委員は自動的に児童委員も兼ねるようになりました。