明剱神社への散歩道
明剱神社の由来と歴史
- 1196年(建久7年)頃からこの地では妙見宮を祀っていました。御祭神は宗像三柱神です。
- 1509年(永正5年)に長代筑前守が下高末1514の山上に移転し明剱神社を建立しました。
- 境内の北側の大きな一枚岩の磐座(高さ約5m)には、江戸初期の作と推定される高さ約70cmの不動明王と役行者の2体の磨崖仏が浮彫りされており当時の修験者の山上信仰祭祀跡を忍ばせています。(矢掛町指定重要文化財)
- 氏子は下高末字上高階と下高階と平宇角と三ケ原の約53戸ですが、年々氏子が減っています。
- 秋祭りは毎年11月第1日曜日に氏子のほぼ全戸が参拝して行なわれています。
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正式には明剱神社ですが、明剣神社と書く人もあります。神社の建物には明剱神社と書いてあります。
北緯34度39分の東西線上に古代遺跡や古墳が点在するという「太陽の道」線上にある岡山県小田郡矢掛町下高末1514の「明剱神社」は吉備の国の古代史では有名な所です。
ここを起点に南北の線を引くと、北には岡山県高梁市の高倉山(383m)、南は岡山県浅口郡鴨方、金光両町と岡山県小田郡矢掛町境にある「遙照山(405m)」があります。この間に、吉備津彦命を祭る矢掛町の「羽無宮」などの神社、仏閣があります。
伝説では、温羅退治で吉備津彦命が放った矢が鬼ノ城の麓にある蛇高の岩に当たり、その岩が砕け散り約20km離れた矢掛町の明剱神社まで飛んで来たといわれています。
2001年11月
| 我が家の裏山の明剱神社(ミョウケンジンジャ)への道の入り口です。 右も左も昔は畑だったのですが、今は山になってしまっています。農業従事者の高齢と人手不足で里山が荒れていくのは寂しいものです。 手前の枯れた大きな木はアサダレと言ってアキグミの木です。子供の頃よく実を採って食べましたが、残念なことに枯れてしまいました。枯れる前にこの実を我が家の山に撒いて子孫を増やすことができました。 ここは海抜約160mです。 |
| かなり急な坂道です。ほぼ真っ直ぐに上がって行きます。昼間でも暗い程両側から木が茂っています。近年松食い虫の被害で多くの松が枯れてしまいました。 |
| 急いで登ると約15分で頂上に着きます。ああ疲れた。こんな高い山にどうやって鳥居の石を運んだのでしょうか。今は四輪駆動車で頂上まで上がれますが、昔は徒歩のみでした。 |
| 私が子供の頃は秋祭りの時ここの広場で備中神楽を朝まで舞っていました。今はもうありません。 うるし科のハゼの紅葉が大変きれいでした。 |
| 境内の南には、ほとんど人が来ることがないのに、立派な石で作ったお清めの手洗い場があります。この傍にも大きな岩がありました。 |
北側の岩壁には矢掛町指定重要文化財になっている、磨崖仏(まがいぶつ)が彫り込まれています。左側の像は背後に火炎、右手に宝剣、左手にけん索を持った不動明王の立像です。右側の像は表情が優しく見えます。
2体とも肉薄彫で長い年月の間に風化し、不明瞭な箇所もあります。これを磐座(いわくら)と言い、かつては『明剱神社』の御神体だったらしい。いつ頃誰が彫ったのでしょうか。
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| 山の上には大きな岩が沢山あります。この奥の岩には金毘羅宮と彫ってありました。 我が家の周辺にも大きな岩がたくさんあります。その岩は大昔にここから落ちたのではないかと言う人もあります。おおこわ。 |
| ここが明剣神社の祠です。毎年秋にはここで氏子全員が参拝して秋祭りの行事があります。この左手の岩は屋根より高く他にも大きな岩があります。 |
| 神社の東の端の大きな岩の上には国土地理院が作成した測量用の三角点がありました。ここは海抜260mで、我が家より約110m高い所です。 |
| 三角点の岩の上から東を見た景色です。牧場の手前の五反田という田圃と、総社市新本方面の山が見えます。五反田の少し手前を北へ入ったあたりに、昔ウラン鉱石か、銅を掘ったという大きな洞窟がありました。今もあるはずです。 |
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